味の素グループの歩み

麻布十番の工場で、うま味調味料「味の素®」を試作

庶民的でおしゃれな街、東京の麻布十番に、創業期「味の素®」の試作をした工場があったことをご存知ですか?

庶民的でおしゃれな街、東京の麻布十番に、創業期「味の素®」の試作をした工場があったことをご存知ですか?
池田菊苗博士が1908年7月に調味料製造法の特許を取得した後、1909年3月に逗子工場で製品が完成し5月に一般発売するまで、事態は怒涛の勢いで進行していきます。

麻布工場があった麻布十番の「二の橋」辺り

1908年9月に二代鈴木三郎助は、池田博士と特許共有契約を締結し、「味の素®」の事業化を決定しましたが、まだ大きな問題が残っていました。それは特許の製法でそのまま工業生産できるかということでした。この為、特許明細書に即した「味の素®」の試作をしたのが「麻布工場」です。
この工場は、二代鈴木三郎助が、ヨード事業を行っていた麻布沃硝(ようしょう)合資会社社長棚橋(たなはし)寅五郎から1904年に購入したもので、鈴木製薬所の工場兼事務所とし、ヨード製品や硝石を製造していました。

技術責任者としてうま味調味料「味の素®」の工業生産の試作にあたった鈴木忠治

場所は、当時の麻布区広尾町二の橋の畔で、この辺りは主として商店と小工場街でした。現在の港区麻布十番四丁目辺りの古川という小さな川に、一の橋、小山橋、二の橋と並んでいます。工場敷地は450坪で広くはありませんでしたが、建物や設備は近代的に整備されており、薬品の試験施設も備えていました。

その後関東の大手ヨード業者であった二代鈴木三郎助と棚橋寅五郎、加瀬忠次郎の3人により1907年「日本化学工業社」が設立されました。39歳の二代三郎助は新会社の専務、東京帝国大学卒業の工学博士棚橋は技師長でした。二代三郎助は棚橋を技術者として尊敬し、棚橋は、二代三郎助を「商売の天才」と呼んでいました。

日本化学工業社設立メンバー(左から)二代鈴木三郎助、加瀬忠次郎、棚橋寅五郎

新会社設立により、麻布工場は、鈴木製薬所からこの会社に移管された為、この工場の実験室を借り、技術責任者の鈴木忠治が責任者となり、1908年10月から「味の素®」の試作を始めました。技術的には、原料を塩酸で加水分解するのが特に難しく、酸に強い硬質ガラス器を用いて、様々な工夫を凝らしました。忠治は、休みも取らず、終始現場に来て、製造工程や設備について注意深く研究し、池田博士も時々工場を訪れては技術上の指示・助言を与えました。

こうして彼らの奮闘の結果、2か月後の12月には、ようやく初めてグルタミン酸ナトリウムの試作品が出来上がりました。この後いよいよ現在の逗子駅近くにあった逗子工場で年末から生産がスタートし、翌年3月には、最初の「味の素®」が出来上がりました。この時の製品は、まだ純度も低く、色や形状も現在のものとはほど遠い状態のものでした。

製品化された初期の「味の素®」

なお、棚橋寅五郎は電気化学工業の先駆者と称され、 日本化学工業(株)は、その後変遷を経て、無機化学品を主力にした企業として今日も発展しています。また二代三郎助、忠治兄弟の母親で、葉山でヨード事業を起こした鈴木ナカは、葉山から麻布十番に移り住み、味の素®の試作開始を見ることなく1905年に59歳で亡くなりました。