味の素グループの歩み

スゴいお母さん、鈴木ナカ~味の素グループの蔭の立役者

味の素グループの創業者、二代鈴木三郎助の母、鈴木ナカは、夫である初代三郎助に先立たれ、29歳の若さで3人の幼い子ども達を女手一つで養うことになりました。

味の素グループの創業者、二代鈴木三郎助の母、鈴木ナカは、夫である初代三郎助に先立たれ、29歳の若さで3人の幼い子ども達を女手一つで養うことになりました。その奮闘が無ければ、現在の味の素グループはありませんでした。ダイバーシティ、女性活躍推進と叫ばれる昨今、100年以上前に懸命に生きぬいた彼女から、私達は何が学べるでしょうか。

鈴木ナカ 1846年、神奈川県三浦郡秋谷村(現在の横須賀市秋谷)生まれ。「味の素®」の発売を見届けることなく、1905年に59歳で亡くなりました

1866年、穀物と酒類の小売店「滝屋」を開業した初代鈴木三郎助は、翌年、ナカを嫁に迎えましたが、幸せな結婚生活は8年しか続きませんでした。1875年、流行した腸チフスのために初代三郎助と、次女マスが急逝。29歳のナカに残されたのは9歳の長男泰助(後の二代三郎助)、7歳の長女コウ、1歳の次男忠治の幼い子ども達でした。ナカは赤ん坊の忠治を抱きながら、泰助とコウに「おん身たちは早く父上に別れて不幸せの子だ。しかしお母さんが父上に代わって、おん身たちをこれからしっかり教育する覚悟をしている。おん身達はこの母を父上と思って、いいつけに背いてはならぬ」と涙ながらに諭しました。

ナカは質素・倹約に努め、3人を育てながら「滝屋」を商いました。そのけなげな姿勢にうたれた取引先や消費者の支援もあり、店は繁盛しました。教育にも熱心で、吉田茂元首相らを輩出した藤沢の耕余塾へ長男泰助を入れ、商業実務を身に着けさせるために浦賀に奉公に出した後、1884年、泰助が18歳の時に呼び戻して、家業を継がせました。

鈴木家の家系図(一部)

泰助は二代鈴木三郎助を襲名、1887年にはテルと結婚、「滝屋」の経営を担うことになりましたが、間もなく米相場に入れ込み失敗。わずか半年の間に鈴木家の家屋敷、田畑、山林などは抵当に入って財産の大半を失い、ナカが気付いた時には手遅れになっていました。それでも懲りない三郎助が親類や知人からも借金して投機を続け、生活費も足りない状況になったため、ナカは生計の足しにと葉山の自宅の奥二間を避暑客に間貸しする商いを始めました。

たまたまここを訪れた大日本製薬の技師、村田春齢から薦められ、ナカは嫁のテルと共に、自宅近くの浜辺に沢山流れ着いていた海藻「かじめ」からヨード(※)を製造する事業を始めました。二人の懸命な努力の甲斐もあって、このヨード事業が鈴木家再起のきっかけとなり、後に改心した三郎助もこの事業に励んだことにより、池田菊苗との出会いにつながりました。
※ヨードは医薬品や殺菌剤の原料として需要があり、当時漁民の副業としてヨード製造が盛んに行われていました

ナカは強い精神力の持ち主で、家計が苦しい中、質屋でお金を工面して次男忠治の学資金を作ったり、家業がどんなに逆境にあっても落胆せず気丈に振る舞って従業員を励ましたりしたため、誰からも慕われていました。
事業運営においても常に創意工夫と努力を怠らないナカの姿勢は、ヨード製造における技術指導を仰いだ東京帝国大学教授、長井長義(日本の化学及び薬学界の先駆者、最高権威者として活躍)からも高く評価されていました。長井は毎年教え子の女子大生を連れて修学旅行に出る度に葉山工場に立ち寄り、「君たちに、日本で一番偉い女性を紹介する」と言って、ナカとテルが奮闘している姿を見学させました。ナカの永眠後は、ナカの写真を指して「こういう高学歴でない一婦人でも、これだけ意義のある仕事を残した。まして、あなた方高等教育を受けた者は、よほど肝をすえてがんばらねばならない」と諭したのです。