味の素グループの歩み

「ぶっ食らわしてみろよ」「勇気を出せ」
工場現場マンの心をつかんだ二代社長 鈴木忠治

「ぶっつわってちゃ、仕様があんめえ」(ただ座っているだけじゃ、しょうがないだろう)。 これは、二代社長鈴木忠治が、川崎工場の実験室で研究員に語った言葉です。

二代社長 鈴木忠治の胸像

「ぶっつわってちゃ、仕様があんめえ」(ただ座っているだけじゃ、しょうがないだろう)。
これは、二代社長鈴木忠治が、川崎工場の実験室で研究員に語った言葉です。

また、部下が「何か新しいことを早くやってみたいが、失敗したら大変だ」と相談した際に、忠治社長が発する言葉が「ぶっ食らわしてみろよ」(いっちょうやってみろよ)でした。
この言葉で、現場マンは元気百倍となったそうです。

「勇気を出せ。勇気のない者は死んだも同じだ」とも諭したそうです。
若い技術者たちは、「忠治社長の言葉に励まされ、困難な研究も続けることができた」と後に語っています。

「耕余塾」跡。この塾は、吉田茂元首相など多くの有為な人物を輩出しています

川崎事業所の事務所前庭に、創業者二代鈴木三郎助と並んで、実弟である二代社長 鈴木忠治の胸像があります。 忠治は、「兄が『忠治が良いと言いといえば私も承知しよう』と社内外の人に語るにつけ、私はこの兄の為ならばと任された製造の仕事に全力であたった。また我が社に働いた人々は、兄から私同様の感銘を与えられ、各人その能力の最大限を発揮し得たのではあるまいか」と語っています。

忠治は兄より8歳年下で、少年時代には兄と同じく、現在の藤沢市羽鳥町にあった寄宿制中学校「耕余塾」に学びました。塾卒業後、忠治は横浜商業学校に進み、一時外国貿易商店に勤めた後、故郷の葉山に帰りました。それは鈴木家の家業であるヨード事業に正式に加わり、技術担当として工場管理を担うためでした。この役割は、「味の素®」事業を始めてからも変わることはありませんでした。
出身が技術者でない忠治でしたが、化学技術に非常に興味を持ち、自ら原書をひもとき、試験管を握り、学者、技術者と寝食を共にし、困難を極めた「味の素®」の生産を軌道に乗せていきました。

左が兄の二代三郎助、右が忠治

1931年、兄の三郎助が亡くなった後、忠治は二代社長に就任しました。
堅実で技術に詳しい忠治社長の下で、1930年代前半に二つの大きな課題を克服し、「味の素®」の大量生産を可能にする生産革新の成果を上げました。一つ目は、「エスサン釜」の実現により創業以来悩まされ続けた耐酸技術の開発で、二つ目は小麦粉から脱脂大豆への原料転換でした。こうして1937年には事業規模において、戦前のピークを記録しました。
また、失敗はしましたが、1926年アメリカに「味の素®」の製造会社を設立したこともあります。事業の多角化にも積極的で、1930年代半ばに昭和酒造社(現、メルシャン社)、宝製油社(現、J-オイルミルズ社)、宝製薬社(現、味の素ヘルシーサプライ社)を設立しました。

最後に忠治氏の言葉から。
「工業会社に勤務する事務系社員は、少なくとも2,3割程度の工業的基礎知識を涵養することが必要であり、技術系の社員は経理計数の素養を基礎的に保持して頂きたい」