味の素グループの歩み

70周年を迎えた味の素社九州事業所

佐賀県・福岡県の県境を流れる筑後川の川辺にある味の素社九州事業所が、2013年12月で70周年を迎えました。

1943年 設置当時の佐賀工場

現在の味の素社 九州事業所と筑後川

佐賀県・福岡県の県境を流れる筑後川の川辺にある味の素社九州事業所が、2013年12月で70周年を迎えました。この事業所が開設されたのは、太平洋戦争中の1943(昭和18)年12月20日のことです。その当時は大日本化学工業(株)佐賀工場という名称でしたが、1961(昭和36)年12月1日に味の素社九州工場となり、2005(平成17)年4月から九州事業所と改称しました。

佐賀工場設立から終戦まで
九州一の河川、筑後川は143km余り流れて、海苔の養殖やムツゴロウなどユニークな海産物で知られる有明海に注いでおり、九州工場はその河口から約10km上流の地点にあります。

秦の始皇帝の命で不老不死の薬を求めて日本に渡ってきた徐福伝説など数々の歴史に彩られ、のどかな田園風景が広がるこの地に工場を作ることとなった発端は、当時の海軍からの要請に基づくものでした。

三代社長三代鈴木三郎助

この時代、「味の素®」を始めとする当社製品は戦時体制下で諸原料の不足から生産維持が困難になっていましたが、軍部からは当社に次々と軍需品生産依頼がありました。たとえば航空機向けのハイオクタンガソリン製造用ブタノールと綿火薬製造用アセトンについては、当時サツマイモか砂糖を原料にした発酵法によって作られており、川崎工場にある技術を生かせるものでした。
三代社長三代鈴木三郎助は、「原料である農作物は九州から調達することができるが、川崎工場の生産ではアメリカ軍の空襲が不安なので、いっそ九州に本格的な工場を建設しよう」と考えました。また当時の佐賀県知事田中省吾氏から熱心な誘致や協力の申し出があったことや、友人であった磐城セメント(株)社長岩崎清七氏から同社の諸富津工場跡(当時の佐賀県佐賀郡東川副村所在)の敷地に建設することを勧められたということもあり、この地に工場を建設することを決定したのです。

1959年 佐賀工場

立地条件としては、筑後川による水運の便、良質な河水や地下水、鉄道が近く工場に引き込み線を引くのも便利、石炭の入手も容易な場所と好条件が揃っていました。ただ、この工場跡地だけでは狭かったので、近隣住民の協力も得、隣接地を買い増して合計19万㎡の敷地としました。
建設は清水組(現:清水建設(株))に依頼して1943(昭和18)年3月から建設を始め、翌年5月にほぼ竣工しました。この時、建設部長を務めたのは、関東大震災後の川崎工場復旧工事で活躍した池藤八郎兵衛(常務取締役)で、彼は初代佐賀工場長も務めました。なお機械装置の多くは川崎工場から転送しましたが、新調機械は主として月島機械(株)から購入しています。工場敷地外の施設としては、北社宅、南社宅として合計社宅35戸、寮舎48室などが建設されました。

設立当時の従業員数は、男女従業員278名の他に学徒動員など合わせて372名、合計で650名でした。工場の全面的操業開始を前にした1944(昭和19)年7月に海軍から急にアセトン、ブタノールの代わりにアルコールを生産するように命じられ、10月から年産1万tを目標にアルコールの生産を開始しました。1945(昭和20)年8月には空襲によって原料貯蔵倉庫が被災しましたが、終戦まで生産は継続されました。

1950年代 「味液」とカラメル

戦後、発酵法によるMSG、リジン生産へ
終戦後は、1945(昭和20)年10月25日に池藤工場長より工場解散の伝達があり、従業員には慰労金が支給され一旦解散しましたが、3か月後には再開しています。
その後は、米軍より払い下げ許可を得たアルコールから焼酎を製造し農村へ供給しました。同様に砂糖からは妊産婦・乳幼児用の滋養糖液を生産しました。更に1948(昭和23)年から、工場経営を維持すべく当地の農産物を原料とするカラメル(さつまいも澱粉を原料とする醤油、つくだ煮等の着色料)、テックス(稲わら、麦わらを原料とする建築用天井・壁材料)を生産しました。

1970年 リジンの生産工場

1976年 九州工場菌恩の碑

1960(昭和35)年12月から川崎工場では、発酵法によるMSG生産が始まりました。九州工場でも1962(昭和37)年2月から発酵法によるMSG本格生産が始まり、工場の姿が大きく変貌していきました。その後数回にわたる製造能力の増強により、MSG発酵能力は当初の月産400tから1969年(昭和44)年9月には2,200tへと大幅に増加しました。
MSG生産への転換のため生産現場での勤務形態は、完全3交代制が実施されました。1960(昭和35)~1962(昭和37)年はいわゆる5・6・7(ごろっち)と呼ばれた従業員の大量採用の時期であり、社宅の整備も進められました。

1964(昭和39)年からイノシンが、1965(昭和40)年9月から飼料用リジンが発酵法により製造されるに至り、発酵工場としての地位をより確かなものとしていきました。

1976(昭和51)年に「味の素®」生産15周年を記念して工場内に設置された「菌恩の碑(※発酵を行う菌(微生物)に感謝する碑)」には、元九州大学農学部教授、本江元吉氏の歌「これやこのちさき生きものありてこそこの世は常に栄えきにけり」が刻まれています。

石油ショック、「JUMP運動」を逞しく乗り越える
更に製品の多角化による生産性向上が図られ、「ハイ・ミー®」、グアノシン、肥料、リボ核酸、酵母エキスなどの生産も行うようになりました。1973(昭和48)年の石油ショック後の資源・エネルギー価格の高騰により、資源・エネルギーの利用効率を一層高める必要が高まり、蒸気削減などの取り組みが各工程で進められ大きな成果を上げることができました。
1978年には、全社的に「JUMP運動」が展開されました。これは収益構造における「味の素®」「ハイ・ミー®」依存からの脱却、体質改善運動であり、生産性を25%アップして要員を節減し、余裕人員900名を、新事業に必要な場に再配置する要員計画でした。九州工場からも、他工場や研究所、福岡支店などの営業現場に異動となり、それまでとは異なった業務で活躍した従業員が多数いました。

1980年代以降はアスパルテームの原料であるフェニルアラニンやアスパラギン酸の生産が始まりました。一方リジンは、国際的に価格競争が激化する中で、採算上の理由で 1995(平成7)年3月に生産停止しました。
またこの時期1994(平成6)年から全社的に始まった「5500人体制」を目指す人員削減施策を反映し、九州工場の要員数は、1993(平成5)年度末の362人から1996(平成8)年度末には308人まで減少しました。この施策は、主として国内要員再配置と工場・オフィスでの省力化投資によって遂行されました。

21世紀にはいり、2003年(平成15)年4月、本社の環境部は、環境経営推進部と名称を変更し、味の素グループの環境保全活動を「環境保全」から「環境経営」へと進めていきました。ISO14001の認証取得は、1998(平成10)年にグループ内で最初に九州工場が取得しました。この後国内外各事業所で順次認証を取得しています。環境保全活動ではゼロエミッション活動の一環として、発酵副生液を資源化する活動において、1999(平成11)年には国内での海洋投棄を停止しました。また副生液から作った肥料が、イチゴなどの地元の高品質な農作物生産に貢献してきました。

2004年 九州事業所 生産革新達成の碑

グローバルな大競争時代へ
グローバルな大競争力時代に突入し、日本国内の生産拠点は急速に競争力を低下させましたが、九州工場も例外ではなく、国際競争力がないという苦境に立たされていました。そこで2001(平成13)年11月の経営会議で、九州工場再生計画が了承されました。再生計画は2年間でコストを半減させるというもので、従来の要員配置や生産方式を根本的に見直すものでした。合理化により余剰となった人と設備をより付加価値の高い製品の製造に振り向ける<活人、活設備>の一連の活動計画は「生産革新」、改善手法は「SELF」と称されました。

こうして、九州事業所は常に国際競争の荒波に洗われ続けてきましたが、味の素社の重要な国内生産拠点として、更に海外工場支援の役割を果たしてきました。その中で地域の豊かな自然環境を守る努力を続け、地域社会の中で経済面、雇用面でも存在感のある工場として活躍を続けています。

なお現在では、フェニールアラニン、アルギニン、システイン、イノシン、「ハイミー®」、 業務用「味の素®」などを生産するとともに、ファンづくり活動として工場見学、出前授業(味覚教室)にも積極的に取り組んでいます。