味の素グループの歩み

関東大震災発生~危機に際して当社がとった行動は!

1923(大正12)年9月1日午前11時58分、相模湾を震源地とする未曾有の大地震が、東京府、神奈川県など1府6県を襲いました。死者・行方不明者10万5千人余り、被害総額推定で約55億円、当時の国家予算の1.4倍に相当するという真に甚大な被害でした。

大震災で倒壊した川崎工場

1923(大正12)年9月1日午前11時58分、相模湾を震源地とする未曾有の大地震が、東京府、神奈川県など1府6県を襲いました。死者・行方不明者10万5千人余り、被害総額推定で約55億円、当時の国家予算の1.4倍に相当するという真に甚大な被害でした。この地震の特徴は、家屋の倒壊より火災による焼失が圧倒的に多かったというところにあります。

当時、当社の前身である(株)鈴木商店の本店建物は、地震による火災で完全に焼失しました。また川崎工場は、煉瓦造りの倉庫と事務所、研究室などを残して木造の建物は瞬時に倒壊し、倒壊面積は、約6,000坪(約19,800㎡)に及びました。

二代鈴木三郎助(晩年)

この危機に直面して社長であった二代鈴木三郎助(以下三郎助)は、すぐさま本店を京橋から高輪の自宅に移し、復興と事業の再開に着手したので、従業員の一部は、社長の自宅に寝泊まりし業務を続けました。
三郎助は、工場の復旧を優先すべきだと決めましたが、京浜地区では、建築材料も、職人も手配できる見込みが立たなかったので、それらを手配する為に、関西出身で建築業の経験のある池藤八郎兵衛を震災3日後に避難民の難船に乗せ大阪に派遣しました。震災後の大工、作業員の労賃は従来の4倍以上にも急騰していたので、三郎助から経費を惜しまないように指示された池藤は、大阪で建設資材、工具をすべて現金で買い入れると共に大工・左官・作業員など約200人を雇い入れ、汽船1隻をチャーターして東京に送りました。工事請負人も不足していましたが、三郎助は、資材は鈴木商店が提供するという条件で、鴻池組、銭高組、安藤組に委託し、建設会社に懸賞付きで工事を急がせました。こうした中で従業員も全員一丸となって脚絆(きゃはん)姿で作業労働に従事したのです。
この様な素早い行動の裏には、1920(大正9)年の倒産危機の反省から積立金をしており、この時800万円ほどの預金があったのが復興の源になりました。

製造・出荷が止まったところに、お客様からは猛烈な注文が来たので、川崎工場では、皆でトタン屋根の小屋を作り、残っていた仕掛品を使って製造し、10月には30貫(1,125kg)の味の素®を生産することができました。更に11月中旬には、急造の仮設建物の一部が出来上がり、本格的に操業を開始しました。

復興途中の川崎工場

三郎助は、震災の再来に備える為と需要増に対応する目的で、川崎工場建屋の構造を木造から鉄骨に改め、規模を8,000坪に拡大することを決めました。鉄骨工事は、12月から着工し、いったん木造で建てた後、鉄骨を組み、下で味の素®の生産をしながら上で建築工事を行うという離れ業でした。
一方、本店は、9月21日に再建工事に取り掛かり、11月上旬に仮設事務所が完成し、本建築が元の場所に完成したのは1925年のことです。

大震災復興後の川崎工場全景

社会では、大震災の影響で、食糧の確保が困難になったので、三郎助の判断で、9月3日に、川崎工場の在庫小麦粉から3,500袋を放出し、東京府芝区内および川崎工場付近の三町村の住民に無料配布しました。また高輪の社長自宅前で10数日にわたって通行人に、すいとんを振る舞って喜ばれたこともありました。
更に9月6日の食糧難救済のための徴収令により、川崎工場では、味の素®の原料の小麦粉20,300袋の供出を命じられましたが、すぐにこれに応じています。

更に、味の素®の供給が一時途絶え市場で品薄状態になった為、当社は、販売店の手持ち在庫の回収、製品の小容量化を実施し、得意先に広く行き渡るようにしましたが、結果的に需要を刺激し、味の素®の市価は1~2割上昇しました。翌年には注文が急増し、特に関東地方での需要増加は画期的でした。これは、震災後の不便な生活の中で、手間がかからない便利な調味料であるという認識を、多くの方が新たにしたということや、そのころから復興需要もあり世間の景気が立ち直る機運に向かっていた為とも考えられます。

当社にとって大震災は大打撃ではありましたが、過去の失敗を教訓とした日ごろからの備えと、経営者の迅速で的確な判断、そして従業員の一丸となった懸命な努力によって、災いを転じて福となし、その後の発展の大きな足掛かりを築いたのです。
<味の素®の生産量:1922年345t、1923年(大震災発生)375t、1924年488t>