味の素グループの歩み

戦後復興にうま味調味料「味の素®」米国向け輸出で貢献

1945(昭和20)年8月15日の終戦の日を境に、我が国の姿は劇的な変容を遂げていきます。 空襲により焼土と化した日本ですが、朝鮮戦争による特需ブームもあり、1951(昭和26)年には、工業生産は戦前の最高水準を突破しました。

1945(昭和20)年8月15日の終戦の日を境に、我が国の姿は劇的な変容を遂げていきます。 空襲により焼土と化した日本ですが、朝鮮戦争による特需ブームもあり、1951(昭和26)年には、工業生産は戦前の最高水準を突破しました。そして1952(昭和27)年4月のサンフランシスコ平和条約発効により、連合国の約7年にわたる占領は終結しました。この激動の時代の中で、1946(昭和26)年2月28日に、社名を大日本化学工業(株)から味の素(株)と改称した当社の最大の課題は、いかにして主力商品である、「味の素®」の生産を再開させるかでした。これは、単に当社一社の再生だけでなく、日本復興の一翼を担うことでもあったのです。

戦中、「味の素®」の生産は、原料(小麦粉、大豆)の入荷途絶により、1944(昭和19)年に入って間もなく川崎工場での生産が完全に停止しました。また1945年4月15日の空襲により、川崎工場施設の40%を失いました。海外では中国の奉天工場、大連工場などの海外資産を接収され喪失しました。

原料小麦の荷揚げ風景(1950年12月 川崎工場)

戦後、川崎工場で最初に「味の素®」が生産されたのは、1946(昭和21)年5月のことです。
戦前の仕掛品からわずかながら行われ、同年9月中旬には、「味の素®」生産設備の全系列を復旧することができました。しかし食料不足の時代であったため、肝心の原料の確保は大変困難な状態が1948年後半まで続きました。こうした中で、台風などの被害を受け冠水した小麦粉などを、四代社長 道面豊信がGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)との交渉の結果、手に入れてきたこともありました。

四代社長 道面豊信

その後食糧事情は徐々に好転し、国内産原料問題は徐々に解決に向かったのですが、残された問題は原料輸入のための外貨割当※でした。このために、委託加工貿易をしたり、1948(昭和23)年9月に設立したグルタミン酸ソーダ工業協会から政府へ小麦粉の直輸入の陳情をしたりして、原料確保に努めたのです。こうした努力が実を結び、生産高は1946年度の14t、1947年度30t、1948年度174t、1949年度471t、1950年1,020tと順調に拡大し、1953(昭和28)年度には5,106tと、戦前のピークである1937(昭和12)年度の3,750tを大幅に上回る生産を実現しました。

※外貨割当:1964(昭和39)年以前は、我が国の輸入貿易管理令おいて、輸入代金の決済に必要な外貨資金の割当は、通商産業大臣の許可を受けなければ、外国為替銀行の輸入承認を受けることが出来なかった。これを「外貨割当制度」と称した。

一方、戦後の「味の素®」の販売は、まず対米輸出から始まりました。日本政府にとって外貨獲得製品としての期待は大きいものがあり、当時、農林省食品局の課長は「国際割当で砂糖5万tなどの枠をもらっているがこれを買うお金がない。このお金を取るには、「味の素®」を輸出したい」 と発言しています。これは、「味の素®」は純度が高く高品質で、当社製品のみが外貨獲得製品と期待されたからです。

またこれは、戦後直ちに三代鈴木三郎助が自ら起草・発表した「長文アピール」に書かれた、「『味の素®』は、人間が食生活の向上を願う限り、国や民族の違いを超えて必要なものであるために、輸出を行って外貨を得ることが容易にできること」という経営構想と合致するものでもありました。 輸出再開に向け、必要なのはGHQの許可でした。GHQの担当者は「味の素®」の知名度に疑問を持っていたので、輸出許可が下りませんでしたが、道面がGHQの上層部に対して交渉した結果、1947(昭和22)年1月14日に「味の素®」の正式な輸出許可が下りました。対米輸出は、1941(昭和16)年太平洋戦争勃発以降不可能となっていましたので、アメリカでは、米軍の要請(缶詰、固形スープなどの携帯食用)によりゼネラルミルズ社などがMSGを生産していました。にもかかわらず「味の素®」の高品質が認められ、アメリカで大変な好評を博し、アメリカ向け輸出量は、1947年度16t、1948年度26t、1949年度120t、1950年度210t、1953年度275tと増大したのです。

三代鈴木三郎助(右)と道面豊信(社内報:1965年新春号)

この様に激動の時代を乗り切ってきた当社ですが、戦後復興とその後のグローバル化、事業の多角化に多大な貢献したのが、17年にわたって社長を務めた四代社長道面豊信(在任:1948年~1965年)です。彼は、1888(明治21)年、広島県仁保島(現在の広島市仁保)で生まれ、広島商業学校卒業後アメリカにわたり、鈴木三郎(後に三代社長、三代三郎助)とニューヨークで出会い、1918(大正7)年3月(株)鈴木商店に入社しました。戦後、1947(昭和22)年公職追放で社長不在となり、専務取締役で会社の最高責任者になった道面は、この年から社員新規採用の公募化を始め、会社の新しい姿を築いていくことに努めました。