味の素グループの歩み

新大陸へ!アメリカ進出の歩み

「アメリカに行け!」 二代鈴木三郎助から新婚間もない26歳の息子三郎(後に三代三郎助)に命令が下ったのは、1917(大正6)年のことでした。当時は第1次世界大戦の最中でドイツ潜水艦が出没しているとの噂も絶えない頃です。

鈴木三郎(三代三郎助)

■長男三郎渡米、「ニューヨーク事務所」開設
「アメリカに行け!」
二代鈴木三郎助から新婚間もない26歳の息子三郎(後に三代三郎助)に命令が下ったのは、1917(大正6)年のことでした。当時は第1次世界大戦の最中でドイツ潜水艦が出没しているとの噂も絶えない頃です。新興産業国としてアメリカの経済的勃興には目覚しいものがあり、国民の消費力も飛躍的に伸びるとの期待が生まれていました。精製ヨード、塩素酸カリなどの化学薬品のアメリカ向け輸出は少しづつ増えてきていましたが、「味の素社」としても「ここに根をおろさなければ嘘だろう」と、二代三郎助が新大陸の市場開拓に目をつけたのです。

三郎が、横浜港を出航したのは同年4月28日、サンフランシスコを経て大陸横断鉄道でニューヨークに着いたのは、出発から1ヵ月後の5月30日でした。それまでの取引は高峰商会に委託していましたが、独自に商売をすることとし、1917年7月2日ニューヨーク市内のサンビル内に「ニューヨーク事務所」を設置しました。
こうして、アメリカ大陸進出への第1歩を踏み出したのです。

その後1920(大正9)年6月1日、ニューヨーク鈴木商店を設立。1930(昭和5)年1月27日NY鈴木商店を、<S. SUZUKI & COMPANY OF NEW YORK, LTD>と改称し、「味の素®」を本格的に広告し販売を開始しました。

アメリカにおける「味の素®」広告(プレート)

1937年頃のアメリカ向けポスター

S.SUZUKI & COMPANY OF NEW YORK, LTDの株券

四代社長 道面豊信

後に三代社長となる三郎は、その著書『味に生きる』の中で、「この時の滞米10ヵ月の中で、非常に感激したものとしては、アメリカ人の商業道徳であり、誠実・義務・道義これこそ自分としても今後の長い経済行脚の実践目標でなければならない」と書いています。

またこの時、広島県出身で渡米後、コロンビア大学等で学んだ道面豊信を現地で採用し、自分が日本に帰国した後のアメリカ事業を託したのです。後に道面は、1948(昭和23)年に四代社長となり1965(昭和40)年まで17年間社長を務め戦後復興、事業の多角化、グローバル化に大変尽力しました。

最初は、米国民に見向きもされなかった「味の素®」ですが、積極的な営業、広告活動の結果、1931(昭和6)年からは、主要缶詰業者であったハインツ、キャンベル両社から「味の素®」を一度に50~100t の大量発注が出る様になりました。こうして1935(昭和10)年には、「味の素®」の対米輸出量は、440t と戦前最高を記録し、日本国内の生産を促し、当時の満州国における直系会社「満州農産化学工業(株)」の設立を促す事となりました。

余談ですが、「一番難しい仕事、いやな仕事はなんでも息子にさせて鍛えよう」と一人息子の三郎にアメリカ行きを命じたものの、父三郎助は、心配で仕方なく、毎日のように泣いていたそうで、そこでテル夫人が「そんなにアメリカにやるのがいやだったら、止めたらいいでしょう」というと、彼は泣きながら「いや、やるんだ」と絶叫したそうです。

二代社長 鈴木忠治

アメリカ向け小瓶(1938年)

■戦前、アメリカ本土にMSG製造工場を建設
1925(大正14)年12月、メロン研究所の一研究員からアメリカ大使館を通じて、アメリカの事業家ジェームス・イー・ラロー氏がビート(砂糖大根、甜菜)から砂糖を取り出した後の液からMSGを製造することを計画しているので、この技術を買わないかという申し込みが(株)鈴木商店にありました。早速二代鈴木三郎助の弟の鈴木忠治専務らが池田菊苗博士とともに渡米しました。ラロー氏と懇談を重ね、1926(大正15)年5月20日に、本契約が成立し、共同出資によるラロー・スズキ社を設立(出資比率ラロー氏60%、鈴木商店40%)し、オハイオ州ロスフォードに新工場を建設しました。またその製品は、東洋方面の販路に関する限り鈴木商店が一手に引き受けることと定められました。

しかし、工場の耐酸設備が完備できず、設備の腐食が激しかったのと、工場現場職員が、塩酸を扱うことを嫌い労務管理が難しかったことや、コストも高くつき、品質も協定規格を確保できないという問題が解決できず、改良塩酸法や硫酸法も試しましたが、ついに1936(昭和11)年10月、ラロー・鈴木協定は廃止されるに至りました。会社は清算解散しますが、鈴木商店(株)の投資額は総額235千ドル余り。清算後に返還されたのは、僅か5千ドルでした。

兄三郎助逝去後、1931(昭和6)年に、二代社長となった鈴木忠治は、この失敗を自分の責任に基づく痛恨事とし、「戦争が済んだらもう一度アメリカに出かけて行って、必ず成功して戻りたい」と周囲の人達に語っていたそうです。

このチャレンジスピリッツが脈々と引き継がれ、戦後、現地生産のための工場建設、たとえば、医薬用アミノ酸(1981年ノースカロライナ州ローリー)、飼料用アミノ酸(1986年アイオワ州エディビル)やMSG(1993年アイオワ州)へと発展していく事となります。

創業当時のアメリカ味の素社ノースカロライナ工場(1981年)

竣工当時のハートランドリジン社アイオワ工場(1986年)