味の素グループの歩み

2012年3月10日、広島の中国支店が開設80周年!

第一次世界大戦後の反動恐慌の中、(株)鈴木商店(現、味の素(株))は、それまでの放漫な支出が1920(大正9)年の重大な経営危機を招いたとの反省から経営体制の整備を進めます。

「原料は小麦の蛋白質」と原料を訴求する広告(1920年)

ガラス製食卓容器入り「味の素®」電車中吊り広告(1928年)

■1920年以降 生産高・販売額が拡大する「味の素®」
第一次世界大戦後の反動恐慌の中、(株)鈴木商店(現、味の素(株))は、それまでの放漫な支出が1920(大正9)年の重大な経営危機を招いたとの反省から経営体制の整備を進めます。 具体的には経費を節減し、予算制度や毎月5万円の積立金制度を確立しました。

1920年代(大正9年~昭和4年)は、1923(大正12)年の関東大震災による本店及び川崎工場の甚大な被害などの相次ぐ試練にもかかわらず、「味の素®」の生産高及び販売額は1920年の167t、2,799千円から1929年874t、10,543千円へと生産高5.2倍、販売額3.8倍と順調に拡大していきます。

このため、三代鈴木三郎助は、1930年代に入り、国内ではそれまでの東京営業所、大阪支店、名古屋出張所の3拠点以外に地方主要都市に相次ぎ販売拠点を設けます。それは1931年3月福岡出張所、1932年3月広島事務所、1935年3月小樽事務所の設置です。

「味の素®」金色缶

■1932(昭和7)年3月10日 広島事務所開設
今年80周年を迎える中国支店が、広島事務所として設置されたのは1932(昭和7)年3月10日で、場所は広島市下中町(現在の中区中町、小町、袋町一帯)でした。
鈴木商店では、1910年(明治43年)に大阪の松下商店(現、伊藤忠食品株式会社)を近畿以西の総代理店とする契約を結びましたが、広島に於いては、榎町の新見久次郎氏が当初から副特約店として大いに成績を挙げていました。

1927(昭和2)年には、蒲鉾屋、料理屋等向けに300匁(もんめ)<1.125kg>入り「味の素®」-金色缶-を発売しますが、広島、宇和島、浜田等で製造し輸出していた蒲鉾の缶詰は、特に味付けを入念にしたので「味の素®」の使用量は多かったそうです。

しかし、小売店等で金色缶を50g、100gに小分けして量り売りする販売が行われるようになり、衛生上の問題や他の粉末を混入されることを恐れ、包装して商標を付した商品のみを「味の素®」であるとし、量り売りをしている店を何度も訪問し、中止を懇請しました。
広島では、問屋と協力して「秤売防止会」の組織化や「広島味の素会」との連携でこの問題はかなり抑えられるようになりました。

1960年頃の広島出張所

屋上にお稲荷様と桜の木がある現在の中国支店

戦時中は、1941(昭和16)年に事務所を閉鎖しますが、戦後は1953(昭和28)年10月1日に広島市大手町に事務所を再開します。

さらに1960(昭和35)年1月には広島市八丁堀に新社屋を建設し出張所に昇格。1962年(昭和37年)12月広島支店に昇格と発展していきます。

1964(昭和39)年10月には、中国地方における販売体制強化として、岡山連絡所(現在の東中国営業所)を設置し、1969(昭和39)年以降、松江・山口・米子・福山に出張所等を設けますが、中国地方における高速道の整備等と相まって1994年(平成6年)までに順次閉鎖していきます。ただし、米子(鳥取県)は2011年7月に出張所として復活し、所長と所員2人で地域密着の営業を展開しています。
1978(昭和53)年12月には当時の本社ビルをイメージした新社屋を、広島市中区小町に完成させ今日に至ります。
1984(昭和59)年4月中国支店と名称変更し、2000(平成12)年には大阪支社の管轄下となりますが、今日も中国地方における営業の拠点として活躍が大いに期待されています。