味の素グループの歩み

戦前の中国事業の歩み

1984(昭和59)年10月16日中国に北京事務所が開設されました。これは戦後間もなく現地法人が中国軍に接収され中国から撤退して以来、ほぼ40年ぶりに中国本土との窓口を再開したことになります。

三代鈴木三郎助(青年期)

1984(昭和59)年10月16日中国に北京事務所が開設されました。これは戦後間もなく現地法人が中国軍に接収され中国から撤退して以来、ほぼ40年ぶりに中国本土との窓口を再開したことになります。今回は、戦前の中国における事業展開についてです。

話は1914(大正3)年9月までさかのぼります。当時24歳の鈴木三郎(後の三代三郎助)は、父二代鈴木三郎助に命じられ、台湾にうま味調味料「味の素®」の拡売に行きました。三郎は台湾での売れ行きの好調さに意を強くし、きっと中国大陸の人びとの嗜好にも合い受け入れられるに違いないと思い、その足で小さな貨物船に乗り対岸の福州に渡ったのです。

20世紀初頭中国ハルビン「味の素®」看板

まず、福州で公隆洋行という商店と特約契約し、上海に行って三井物産社に相談したのですが「こんなもんは売れませんよ」とあっさり断られてしまいました。 やむなく日本租界(日本人居留地)の大正屋という店に販売委託をし、その後杭州、南京、漢口、北京、天津、大連、奉天を巡り各地の販売店と契約し朝鮮経由で年末に帰国したのです。この時の出張が契機となって後日、中国、満州(現在の中国東北部)事業の発展へとつながっていきました。

中国向けポスター(1920年代)

すなわち1918(大正7)年2月に上海出張所が開設され、従業員2名が赴任し中国人を3名ほど雇い入れ、「味の素®」、小麦澱粉に加えヨードなどの薬品を販売しました。しかし排日、日貨排斥運動(日本産品ボイコット)が盛んとなり、出張所のガラスが投石で割られたこともありました。この当時の「味の素®」の中国向け年間輸出量はわずか4tでした。

1922(大正11)年からは、「味の素®」を本格的に販売することとし、予算を増額し、新聞広告や看板、ポスターを多数制作し広告宣伝に努めました。また揚子江上流の地方大小の都市へも1ケ月に数回出張して販売店の増設、販路の拡張及び宣伝に努めました。こうした努力の結果次第に活発な売れ行きを示すようになってきました。

満州農産化学工業社(1939年)

1927(昭和2)年には、大連化学工業所を買収し、昭和工業社を設立しました。この大連化学工業所は、かって池田菊苗博士の助手であり、川崎工場の主任技師も務めた栗原喜賢が創立し「味の素®」類似品 を製造していました。昭和工業社は当初生産量は月産1~2tで、その後月産15~20tにまで増加しましたが、1939(昭和14)年に当社が設立した満州農産化学工業社に吸収され同社の大連工場となりました。

満州農産化学工業社の株券

1929(昭和4)年4月には、二代鈴木三郎助が中国、満州視察に出かけますが帰国後、日本貿易協会でこのような講演をしました。

「結局排日運動は下火になることはあっても全然なくなることはないと思います。それで中国に商売するには、日貨排斥があるものとして万事算盤(そろばん)を採らねば、とんだ間違いを起すことになりはせぬかと思われます。中国には特許法がないので類似品も2、3ありますが、結局「味の素®」の15年間の成績は幸いにして相当向上しています。中国人は非常に味覚の発達した国民である為に、品質の優良なることも良く認めてくれている様に思われました。中国人といえども相当心ある識者は、日華間は親善であらねばならぬということもよく承知している。それで吾々は余程気長に、日華親善、共存共栄の実をあげることに努めるより外はないと思うのであります」

満州での電車屋上の看板

1930(昭和5)年には、日貨排斥に備えて「味の素®」の中華風包装で白鳩印「味華」という商品を発売したこともありました。当時上海における「味の素®」の類似品工場は13もあり、天厨味精廠(テンチュウミセイショウ)の「味精」「味宗」などが販売されていました。これらの類似品全部の生産額を合わせると、当社の上海出張所で扱った「味の素®」の総額よりかなり多いという状況でした。

1932(昭和7)年1月に勃発した日中両軍の軍事衝突である上海事変の際は、戦線からの流弾が出張所まで飛んできたので、商品の箱を積み重ね、これを防壁として所員は店内にたてこもった事もあります。上海事変落着後は、代表的日本製品であった「味の素®」は、販売回復に日時を要したわけですが、大衆の「味の素®」に対する愛着心はなかなか強く、夜中にひそかに買いにきたり、その場で缶を開けて中身だけを布袋に詰めて持ち帰ることもあり、ブランド品であった「鈴木味の素」(リンムウエイツスウ)がいかに彼らの生活に浸透していたかが窺えます。

1932年3月我が国は満州国建国宣言をしますが、リットン調査団の満州国不承認に反発し1933(昭和8)年3月国際連盟から脱退します。
この後、当社(味の素本舗(株)鈴木商店)年はハルビン、奉天(現在の瀋陽)、天津にも事務所を設置し、広大な中国本土のすみずみまで販路を得るに至りました。

上海の街頭に飾られたペンキ絵の大看板(1935)

1935(昭和10)年1月には関税対策として天津工業社を設立。川崎工場で生産した粗製グルタミン酸を精製し、最初は月産4t程度を目標としましたが、後には10t位まで増産しました。

1937(昭和12)年7月には北京西南方向の盧溝橋で日中両軍が衝突し日中戦争の発端となります。この年の「味の素®」中国向け輸出量は98t、満州向け移出量は278tと過去最高を記録しました。 こうした状況の中で1939年(昭和14)年6月に満州農産化学工業社を設立しました。

1931(昭和6)年頃から「味の素®」第2工場建設を計画していましたが、川崎工場で脱脂大豆を原料とする研究が完成し、1934(昭和9)年からその生産に入ったのを契機に、原料大豆を豊富に産する満州の奉天(現在の瀋陽市)へ進出を決定したのです。

製品は、満州、中国の他アメリカ、東南アジア、日本にも輸出するという遠大な計画の下、月産550tの目標でした。

天津事務所(1940年頃)

しかし1941(昭和16)年12月の太平洋戦争の勃発後、石炭や塩酸などの調達が厳しくなり1943(昭和19)年頃には生産はほとんどできない状態になりました。同様にハルビン、奉天、上海など各地の事務所も次々に閉鎖に追い込まれました。
そしてついに1945(昭和20)年8月15日の終戦後、満州農産化学工業社奉天工場と天津工業社は中国軍に接収されました。

戦後は、1954(昭和29)年に当時は英国領であった香港に香港事務所を開設し、1956年には香港に「味の素」の文字ネオンを完成させ、復活のシンボルとしたのです。

その後1972(昭和47)年9月には田中角栄首相と周恩来首相による日中共同声明調印すなわち戦争状態の終結・国交正常化がなされ、それを踏まえて1978(昭和53)年8月には日本と中国の友好関係発展のために日中平和友好条約が締結されるに至りました。それから6年後に冒頭の北京事務所開設、翌年本社に中国室設置へと進展したのです。

なお現在の中国では、100万t超のMSG需要があり、当社が根付かせたグルタミン酸ソーダの食文化への貢献は大変大きなものがありました。ただ現状は現地メーカーの商品が大半で、当社の「味の素®」はわずかな量にとどまっています。