味の素グループの歩み

レット・ミー・イントロデュース・マイセルフ!

私は、当グループの創業者、二代鈴木三郎助です。私のことは、写真で見られたことがあると思いますが、私のことを何も知らない方も多いと思うので、新年にあたりまかり出た次第です。

私は、当グループの創業者、二代鈴木三郎助です。私のことは、写真で見られたことがあると思いますが、私のことを何も知らない方も多いと思うので、新年にあたりまかり出た次第です。

私が生まれたのは、今から145年前の1867年12月27日※。
葉山の商家「滝屋」の長男として生まれ泰助と名付けられた。私が9歳の時、働き者であった父が病気で亡くなったので、母ナカが店を切り盛りしていたが、私が18歳で二代三郎助を襲名し家業を継いだ。当時は、私も若気の至りで、米相場に入れ込んで家業を傾けたこともあった。
※旧暦では、1868年1月21日の生まれ

しかし、母や妻のテルが、朝早くから葉山海岸に打ち上げられた海草のカジメを焼いてヨードを作っているのを見て、これではいけないと改心し、その後は一心不乱に仕事に打ち込んだ。そして35歳の時には、今の銀座4丁目に東京事務所を設けるまでになり、世間では関東地方では化学薬品業界の第一人者とまで言われる様になったのだ。

私にとっての最大の転機は、1908(明治41)年2月、40歳の時に、東京帝国大学の池田菊苗博士の実験室を訪ねたことだ。昆布の研究をしている先生がいるということで、訪ねたのだが、これが縁となってこの年の8月に、池田博士が特許を取られたばかりの新調味料の事業化を依頼されたのだ。いろいろ悩んだが、品質や味の効果について各方面の方のご意見を聞き、特許も博士と共有させていただく事とし、遂に承諾したのだ。商品名は家族会議を開き「味の素®」と決め、今の逗子駅近くに新工場を建て、一家の命運をかけて事業をスタートさせた。

製造責任者は弟の忠治、販売広告の責任者は長男三郎(後に三代三郎助)とし、スタートさせたが、世界で初めての事業なので難問山積みだった。今の様にテレビやパソコンなどない時代、「味の素®」とはどういう商品かを、新聞広告やちんどん屋などあらゆる手段を使って宣伝したものだ。ようやく少しずつ売れ出すと、類似品が出まわったり、原料は小麦なのに、蛇を使っているなどととんでもない噂も立てられたりもした。取引銀行から「『味の素®』の製造を続ける限り融資はお断りしたい」とまで言われたこともあった。1923(大正12)年の関東大震災の打撃も大きかったが、その後逆に商品の売れ行きが増えた時は、今までの苦労が報われたと思ったものだ。1929(昭和4)年に発売20周年を迎えたころは、ようやく事業の基礎がしっかり固まり、東京・大阪はじめ全国で取引先をお招きし、盛大に記念事業ができた時は、人知れず感激の涙をぬぐったものだ。

満州にて張学良氏(左から2人目)と二代鈴木三郎助(左から4人目)

この年私は62歳だったが、4月には、2か月間中国・満州の視察旅行に出かけた。どこの一流中華料理店に行っても赤い缶の「味の素®」を見てうれしく感じたものだ。

また奉天※で、満州軍閥の統領である張学良氏を訪ねた時に、夕食の招待を受けたが、彼は外交辞令が巧みで「自分に満州一手販売をやらせてくれ」などと言われたりした。私は日中親善、両国の平和ということはお互いの間の理解と常識の上に立たねばならんと強く感じた。これは、帰国後日本貿易協会で講演させていただいた。
※奉天(ほうてん)…旧満州の奉天は、現在の瀋陽市。かつて清国の首都だったことがある。

さて、私の家族は、妻テルと一男五女の子ども達。私の日常生活は、いつも渋い和服を着て過ごしていた。洋服を着たのは長男三郎の結婚式の時と、勲章を頂いた時他数回しかない。タバコは好きで「敷島」か「朝日」を愛用していた。

趣味は色々あったが、哥沢(うたざわ)※、将棋、菊づくりなどだ。哥沢は、節回しと間の良さは素人離れしていると褒められた。将棋は好きなので、丸の内帝国劇場裏の日本クラブの一室でよく指していたが、他人は、へぼ将棋と噂したらしい。
※哥沢(うたざわ)…江戸時代に生まれ、粋の粋、通の通たる江戸生粋の音曲。

二代鈴木三郎助とお孫さん達

ただ自分でいうのも何だが科学知識や社会情勢の吸収には貪欲だった。東京で自動車に乗っているのは渋沢栄一さんなど数人しかいない時から自動車を乗り回していたし、毎朝、新聞には丹念に目を通し、切り抜きを三郎にも必ず回した。人付き合いも好きだったので、販売店の方とは皆さんと親戚づきあいをさせていただいたし、政財界の多くの方とも懇意にしていた。

汽車に乗る時は、二等ばかりでなく三等にも乗り、各地の情報を仕込んだり、西洋人と話し込むこともあった。英会話は全く駄目だが、手真似口真似で何とかなるものだ。これには三郎もあきれていたな。

社員に対しては、家族主義を心掛けていたので、三郎の結婚式には、入社間もない新入社員も招待した。ただ会社へ遅刻が続く者には、朝自分が自動車で迎えに行き、本人や家族を恐縮させて、出勤時間を守るようにしたこともあった。少しやり過ぎだったかな。

二代鈴木三郎助愛好の格言:「質実」、「四海兄弟(しかいけいてい)- 人に対しては敬う気持ちを持って礼を忘れず接していれば、世界中の人と兄弟になれる(論語)」

ここまで、やってこられたのも、販売店様のご尽力や、社員一同の奮闘は勿論だが、弟忠治と息子三郎とのチームワークの賜物だ。商機を失うまいとして猛進する私は、時折方針を訂正する為に、お得意先に詫びなければならないことがあった。その時の言い訳に「弟の忠治が承知しないものですから」と言ったものだ。その後忠治は、「兄はあの気質ですから・・・人間が好すぎますので、涙もろくて商売人向きじゃございません」と巧みにフォローしてくれたらしい。

長男三郎は、若い時から後継者として鍛えに鍛えた。17歳の時、函館で大火があった時に「すぐ函館で焼け昆布を買い集めてこい」と命じたこともあった。22歳の時は、台湾に市場開拓のため出張させたが、「アジノモトハ シナ(中国)ニナガレユク ワレシバラクソノアトヲオウ サブロウ」と電報を打ってきたので「ワレカンゲキス シナニワタレ カラダニキヲツケヨ」と返事した。

その後三郎は、中国大陸を転々とし、販売網を作り帰国してきた。27歳の時には、第一次世界大戦中にもかかわらず、アメリカ出張を命じ、ニューヨーク事務所を開設させたものだ。

私は、1931(昭和6)年3月29日に他界したので、それからもう80年余りが経った。