スポーツの舞台裏に迫る『挑戦のそばに』

“登山界のアカデミー賞”と言われるピオレドール賞を獲得した経験を持つ、世界的登山家の花谷泰広さん。小学校の頃から地元・六甲山で山登りを楽しみ、20歳でヒマラヤのラトナチュリ峰(7035m)を初登頂。現在は、若手登山家育成プロジェクト「ヒマラヤキャンプ」主宰、甲斐駒ヶ岳黒戸尾根の七丈小屋運営、自然資源を活用した町起こしなど、様々な分野で活躍されています。そんな彼の登山人生は、インドのメルー峰を登っていた時に起きたある出来事をきっかけに大きく変わりました。その出来事とは一体何だったのでしょうか。今回は、山を拠点に登山家として後世に残る仕組みづくりに取り組む、花谷さんの人生に迫ります。

六甲山からヒマラヤへ。世界的登山家への道

花谷さんが山に興味を持ったのは、小学校低学年の頃。山好きな祖父に連れられて、地元兵庫県の六甲山を一緒に登っていたのがきっかけでした。
その後、小学校5年生の頃から自発的に登山教室に参加。登山や座学、ロッククライミングなど、山全般にまつわる活動を少年団として行ってきました。高校も兵庫県内の山岳部強豪校へ進学。山の魅力に魅せられていきます。大学在学中には、休学してヒマラヤを2回訪れ、1996年にはラトナチュリ峰(7035m)に登頂。北米・南米の山にも挑戦し、卒業後には登山家として本格的に活動を始めます。ただ、20代のうちは「明確なビジョンはなかった」と言います。
「20代のうちは、ただ山に登り続けていたかった。職業として登山を意識するようになったのは、30歳を越えてからです。当時は多くの山に登っていましたが、仕事は不定期で、生活も不安定だった。僕の場合は、富士山で夏は主に登山ガイド、冬は山頂の測候所に荷物を届ける仕事をしていました。真冬の富士山に月3回、1年で50回くらい登っていたので、大変でしたよ」。
そして春と秋には海外へ山登りに行く。そんな生活を続け、着実に経験を積むことで世界的な登山家となっていった花谷さん。
ただ、その頃は「とにかくたくさん登ることしか考えてなかった」と語る彼に、転機が訪れます。それは20代後半で負った、ある大きな怪我でした。

怪我して見つめたクライマーとしての価値

「思い出に強く残っているのは、インドのメルー峰で怪我した体験ですね。成功した登山は意外と忘れちゃいますけど、苦い経験は鮮明に覚えています。6500m程の山をクライミングしていたのですが、途中で落ちてしまって。ロープで命こそ助かりましたが、打ちどころが悪く足首の靭帯を断裂してしまった。全く歩けなくなり、3日間くらいずっと四つん這いの姿勢のまま山を下り、なんとか帰ってくることができました。それが1番強烈な経験です」。
復帰するまで1年半が必要だった、大きな怪我。この経験を通して花谷さんは、「自分の力量を見極めて、本当に自分がやりたい登山がどういうものか、向き合うようになった」と言います。
「その後は、誰も行ったことがないところや誰も登ったことがない山・ルートを追求していくといった活動に舵を切りました。未踏のルートは情報がなく、それに登るのがクライマーとして1番の贅沢。それは、“ググって”も出てこないので。今まで色々な人がトライしたけど、1度も成功していない場所を初成功すれば、クライマーとしてすごく価値があると思うんです」。
怪我から復帰した花谷さんは、見事に2006年、メルー峰の登頂を果たしました。
以降は、「テーマをもって登るようになった」花谷さん。続く30代・40代では、登山の文化を伝えて、山の魅力を活かして地域を発展させていく、そんな活動をより多く行うことになります。