スポーツの舞台裏に迫る『挑戦のそばに』

現在リーグ4連覇中と、アメリカンフットボール国内最強を誇る富士通フロンティアーズ。高く評価されるディフェンスの中核、ラインバッカーとしてチームで10年、活躍しているのが竹内修平選手です。今回は、大学生と社会人のレベルに大差を感じ、ひとつの出来事をきっかけに、努力を重ねて日本代表に上り詰めた竹内選手のエピソードに迫ります。

本当のアメリカンフットボールを知ったのは富士通に入ってから

今年度、日本のアメリカンフットボール界に偉大な歴史が生まれるかもしれません。昨シーズンの日本選手権『ライスボウル』を制し、4年連続日本一に輝いた富士通フロンティア―ズ。チームは今シーズン、史上初となる5連覇の偉業に挑んでいます。その中でディフェンスの中核を担うのが、ラインバッカー(LB)竹内修平選手。日本代表にも選ばれる国内トップ選手ですが、その成長の裏側には、ひとつの物語がありました。
ラインバッカーはアメフトにおいて、ディフェンスの司令塔と言われるポジション。相手チームがラン(ランニングバックがボールを持って走る攻撃)で攻めて来たときはタックルで止め、パスの場合は後ろに下がってパスカットを狙う。パワーとスピードが求められ、相手の反応を見極めてプレーする頭の回転も必要なポジションです。
「僕は頭が良くないですけどね。暗記も体と気持ちで覚えるタイプです(笑)」と笑う、竹内選手。常勝チームとなったフロンティアーズで、10年間にわたり第一線で活躍してきた彼ですが、実は社会人トップリーグ『Xリーグ』でプレーを始めた頃は、完全に自分のレベルが違うと痛感したそうです。
「本当のアメフトを知ったのは、社会人になってからです。プレーの幅も全然違うし、大学と社会人で全くレベルが違う。僕の大学は東海学生リーグ2部と呼ばれる、競技が盛んな関東や関西リーグで言うと、実質3部あたりの実力のリーグに所属していました。サインもすごく単純で数えるほどしかなかったし、動きも自由で、きっちり役割さえ決まっていなかった。社会人になってから、本当にアメリカンフットボールが全く違うスポーツのように思いましたね」
そこから、竹内選手の挑戦が始まったのです。

10年間プレーを続けてきた、自分の原点となる悔しい出来事

「社会人1年目は、本当に何もできなかった記憶しかありません。気持ち的にも一番辛かった。ただ、2年目から“この状況を乗り越えなければこの先活躍できない”と思い、取り組みも本格的に変えました。その時に成果が残せたからこそ、今があると思っています」
強豪フロンティアーズに入るのは、大学時代もそれぞれトップレベルで戦っていた選手たち。レベルの違いに戸惑った竹内選手ですが、2年目のシーズンにひとつのターニングポイントが訪れます。
「2年目の時、大好きだった祖父が亡くなって、シーズン初戦とお葬式が重なったんです。それで僕は、お葬式よりも試合を選んだ。その試合、キッキングの僕のプレーでモメンタム(流れ)を引き寄せたのですが、ラインバッカーとしてはろくにプレーできなかった。自分の責任を全うするため下した選択でしたが、“なぜこんなに頑張ってきたのにやれなかったんだろう”とすごく悔しかった。そこで、1日が本当に大事で無駄にしてはいけないと、心から思ったんです」
1年目の悔しさ、自分への不甲斐なさ。そんな想いを糧に、ひたすら努力した竹内選手。1日1日を突き詰めて、その日の練習ひとつを大事にする。練習終了後にクラブハウスでその日のビデオを見ながらノートを書き込み、ワンプレーの意味を考える。次の練習は何をすべきか考え、ウェイトトレーニングも追い込む。とにかく1日ずつできることを行い、積み重ねた結果、2年目から徐々にスターターとして起用されるようになりました。
「地方リーグから上がってきた身としては、自分の中で精一杯やってみて、それで結果が出なければ諦めてもいいぐらいの気持ちでやっていました」
自分が試合に出るために何をするべきか考え抜き、徐々に試合にも貢献。最終的に、そのシーズンは準決勝で敗退。「試合に出て、絶対に優勝する」と祖父に誓った願いは果たせず、竹内選手は大粒の涙を流しました。「今でも覚えていますが、めちゃくちゃ悔しくて、横浜スタジアムで負けて、恥ずかしいぐらい号泣したのを覚えています」。
その経験を自分の原点として、竹内選手はこれまでも、これからも進み続けています。
「その出来事が自分の中では、スポーツマンとしてアメフト選手として、今まで10年間続けてきた原点であり、社会人として今ここにいる理由です。このチームでプレーさせてくれるまで支えてくれた人たちの期待を裏切りたくない、そういった人たちへの感謝が、今まで続けられた要因ですね」