スポーツの舞台裏に迫る『挑戦のそばに』

今回は、元サッカー日本代表監督として2度のワールドカップを戦った岡田武史さん。日本人監督として最高の実績を誇る岡田さんは、2014年、当時四国リーグ(国内5部に相当)所属だったFC今治のオーナーに就任。一からクラブを作り上げる、壮大なチャレンジを始めました。あれから5年。FC今治をJ3昇格へ導き、地方創生など社会課題にも取り組み、昨年12月には自身の知見をまとめた指導者向けの本『岡田メソッド』を出版。多くの人々の人生に貢献しながらも、今なお「夢はこの社会に絶対必要」と自分の夢を突き進む、その原動力に迫ります。

自分のメソッドに沿って一からクラブを構築する、その偉大なる挑戦

2014年11月、そのニュースは驚きを持って伝えられました。
「岡田武史氏が四国リーグ所属のFC今治のオーナーに就任する」。
日本代表監督として2度のワールドカップ出場を果たし、横浜F・マリノス監督時代にはJリーグ2連覇を達成。2012年からは中国リーグ杭州緑城の監督を務めるなど、日本人サッカー監督としてトップの実績を持つ岡田さん。その彼がなぜ、愛媛県の一クラブをマネジメントすることになったのでしょうか。
「元々日本代表は力があるのに、2006ドイツでも2014ブラジルでも1次リーグで敗退となった。相変わらず日本は『言われたことはきっちりやるけど、自分で判断できない』と言われる。なぜか考えた時、FCバルセロナのメソッド部門ディレクターだったジョアン・ビラと出会ったんです。スペインにはプレーモデルという型があり、それを16歳までに落とし込んで後は自由にプレーさせる。それを聞いて、ただの自由から革新的な発想は出てこない、型があるからそれを覆す発想が出てくるのではないかと思ったんです。それなら日本人が世界で勝つための型を作って、それを16歳までに落とし込み、後は自由にするクラブを作りたいと思ったのです」。
岡田さんの意思に対して、Jリーグ3チームが「全権任せてもいい」と手を挙げてくれたそうです。しかし、それだと「今あるものを潰さなければならない。過去の指導を全部否定するようなネガティブな事で時間がかかる方法ではダメだ」と、一から構築できるクラブとして選んだのが今治でした。もちろん、最初は苦労の連続です。
「最初は資金を集める役割の社長を雇えず、私がオーナーと兼務しました。経営を始めたら、皆に給料を払わなければならないし、社長の役割である資金集めも必要で、監督として現場を見る余裕など全くなかった。そんな時にライフネット生命創業者の出口治明さんにお会いして、『統計上スタートアップの9割は5年以内に潰れるんですよ。でも岡田さん、大変だからと誰も挑戦しなくなったら社会は変わらないんです』と言われた。それが支えになり、“絶対5年頑張るぞ”と死に物狂いで走ってきた。それで何とか、5年持ったところです」。
その偉大な挑戦の裏には、岡田さんの心血を注いだ努力はもちろん、様々な方の想いや助言が糧となったようです。

今治が動き出した瞬間、『これでやらなかったら男じゃない』と感じた

FC今治で人生を賭けた挑戦を始めて5年、社員も約60人に増え、規模も拡大。その中で岡田さんにも地域にも、たくさん変化がありました。
「最初は地方創生も取り組むつもりはなかった。でも、家を借りて住むと気付くことがたくさんありました。街の中心の交差点に大きな更地があるし、大手のデパートもなくなっていく。しまなみ海道という素晴らしい橋ができて、フェリーが出なくなったから港へと続く商店街に人がいなくなった。『これではFC今治が成功しても見に来てくれる人がいなくなる』と危惧して、まずは一緒に街を元気にする方法がないか考え始めたんです」。
「サッカーでは、27ある少年サッカーチーム、12の中学校、6校しかない高校、その指導者全員に会った。ひとつのピラミッド“今治モデル”を作って全体で強くなりましょうと、FC今治から指導者を無償で出しました。その成果として今年ようやく、今治東が高校選手権に出て、めちゃくちゃ嬉しかった。そうすると、全国から子どもや若者が集まってくるし、指導者も岡田メソッドを勉強しに来る。新スタジアムをここに建てて、365日スポーツができたり、それを起点に人が集まるスキームを作っていきたい。そうして、社会を変えていく活動が始まったんです」。
その活動は、今治の人々の心をも動かしました。「私が来た当初は、車にポスター貼って走っても駅前でビラを配っても認められなかった。だから、クラブスタッフが街に行くように、残業は20時までにしたり、地元の友達5人作らないといけないとか、とにかく町の人に認めてもらうために色々やりました。孫の手活動や『バリチャレンジユニバーシティ』または環境教育、野外体験教育をやったりして、ようやく認められてきた。だから今、徐々に人が動き出して、街に活気が戻り始めたんですよね」
岡田さんにとって、その成果を実感する出来事が2018年にありました。「去年は最終戦でJリーグに上がれないことが決まったんです。これでスポンサーも下りるだろうし、罵声を浴びるだろうと思って、最後に挨拶しました。でも、罵声なんてひとつも来ない。今まで『来年は上がれよ』と他人事だったファンが、『来年は上がるぞ!』と自分の言葉で話していた。スポンサーからは『もっといい選手を獲れ!』と激励された。
去年、Jリーグに上がれなかったのは、意味があったのかもしれません。あれで『岡田がやるだろう』から『俺たちがやらなきゃいけない』という街の動きが出てきた。『ありがたい』を通り越して、『これでやらなかったら男じゃない』と感じたし、この人たちを笑顔にできたら最高だと思いましたね」
岡田さんの信念が、街の感情を呼び起こした瞬間。それは「今治が動き出した瞬間」だったと言います。地域との強い結びつきを得たFC今治は、今季J3昇格を達成。今年3月から始まるリーグで、ファンと共にまた新しい一歩を踏み出します。